【公開日】 2016年01月28日  【最終更新】 2017年05月05日

改善点を探すほうが有益だけど…

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「批判するなら対案を出せ!」というのを最近はよく目にするように思います。

これはたしかに正論ですが、「なにかおかしいな?」と違和感を感じませんか?

批判が起こるメカニズム

それもそのはずで「どうすれば良いのかはっきりとはわからない」けれど「その手法は自分の信義に反する」か「批判する」という反応になってしまい、「やり方がわかっている=対案がある」ならわざわざ批判に回らず結果を出すために「行動する」でしょう。

実質的に人間は必ずしもはっきりした意識の中で生きているわけではありません。

ですからそんな簡単に白黒をつけられることばかりが世の中にあるわけではありません。

もしはっきりしないけど「何か」を主張しようというのならば、自分の持つ知識や経験を総動員し「批判する」しかない、ということになります。

方向性の話

例えば「生活の質の向上」のように、目指す方向性がある程度一緒であれば「議論する=知識・知恵を出し合う」ことによってより良くなるでしょう。

ですが、例えば「軍事力の行使」か「戦力の否定」かという論点のように双方の意見の中身が背反してしまう場合、知識を出し合って完成させる、という行為は中身に不整合を生み出すことになり、まとめることはほぼ不可能になるといえます。

もちろん自分と違う相手の意見を知ることは重要ですし、それによって新たな価値観が生まれたりはします。

しかし、そのままでは議論自体は平行線であり明確な結論は出せないままになってしまいます。
万が一、議論の結論を出すことが出来るとすれば、それはどちらかが説得された場合に限ります。

最悪の場合

このように「決まらないという事態」に陥れば、結局は偉い誰かの「鶴の一声」や「独断」でしか判断ができなくなってしまいます。

つまり、「目標そのものが違っていた」場合、どうやっても「水掛け論」的な状態にしか収まるわけがなく、多くの意見が出てきても全く意味のないものになってしまう可能性が高いです。

そのためにリーダーには「目標の設定」というノルマが課されますが、これを適当もしくはないがしろにしている人が多いと感じます。

あくまでも議論によって決着をつけるという条件なのであれば、「個人の意思」と「全体の決定」は区別する必要があります。
そして「個人の意思」をもって話し合った結果、「自分の考えと違う結果」となったとしても決定は受け入れなければなりません。

これが「議論」であって「合議制」という仕組みというわけです。

ただ一つ厄介なことがあります。それは「個々の持つ発言力の違い」によってまともな意見が取り入れられない危険性があるということです。
せっかく意見を出し合うのであれば発言権自体を「1人1票」みたいに平等にしておくべきです。

まとめ

グダグダになってしまいましたが、重要なのは「目指すものが全く違う場合には、話し合いそのものが無駄」になる危険性を認識することと、「権力のある人間による独裁的な決定権は排除されなければならない」ということを理解しなければならないということです。

それを理解せずに「対案を出せ!」などと言う人がいるならば、その人はおそらく「何も理解できていない」か「理解できているふりをしている」か、そういった人間でしょう。

ここまで書いてきましたが基本的に人間は自分自身が一番可愛いというのが真理ですからどうしようもないというしかない部分もありますね。



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ほんと参った

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