【公開日】 2017年02月24日 

社会に合わないものを「障害」とみなす風潮はどうにかならないでしょうか?

【この記事を読むのに必要な時間は約〈 6 分30秒 〉です。】

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障害とは何なのか?

最近、よく「発達障害」や「アスペルガー症候群」などの話を目にしますが、そもそも「障害」って何なのでしょうか?

なぜ人と違うことをしたら「障害」で社会の「お荷物」として扱われてしまうのでしょうか?

これがどうも気になってしょうがないので書いておこうと思います。

社会の標準

結局、多くの人が障害とみなしたいのは「社会の標準」から外れている人のことです。

社会のルールがあり、そのルールの中で生きられない人を「障害者」と呼んで区別しているだけです。

時代や文化によって標準は異なり、現在のような自由を前提とした社会の中では自分で考えることのできない人間は障害者として扱われ、逆に中世以前のルールを絶対視するような社会ではその自由に生きる人間を障害者、あるいは異端者として排除していました。

要するに「都合の悪い人間は障害者として区別してしまえ」という「思想」なのではないでしょうか?

重度の障害者は別

例えば最初から寝たきりであるとか、一切の物事を自分でやっていくことのできないような「重度の障害者」はどのような社会においても「障害者」として一定の区別は必要となります。

社会という共同生活を前提としているのに、人を人と思えないような人間や、平気で重大な犯罪を犯すような人間を健常者として世の中におくことは社会全体の不利益となりえます。

この点については障害者という一定の区別は必要であると言えますが、ちょっとした個性を障害と言ってしまうのはどうなのでしょうか?

人によって基準は様々

よく平均的な人よりも過敏に反応する人を見て「過剰反応」というレッテル張りをする人たちを見かけます。

その社会の標準的な人よりもちょっと繊細なだけでしかないにもかかわらず、です。

例えば戦場などで轟音になれた人間はその音に慣れて特段慌てなくなりますが、閑静な住宅街で何不自由なく育った人がこれを脅威に感じるのは仕方のないことです。

怒鳴られることを経験上苦手としている人に「その程度のストレス耐性もないのか」といったところで、その人にとってはその行為は殴られるのと同じような痛みを感じる行為であるかもしれないのです。

人は「安全であること」を認識することで過剰な反応から解き放たれる

戦場で乾いた音がすればみんな気を張りますが、街中で、特に日本のようなある程度安全が保障された国の中でそのような音を聞いても特に危機感はないでしょう。

そういった「自分たちの当たり前とする反応をしない人」を見て「おかしい」というレッテル張りをするから「不寛容」だと言われるのではないでしょうか?

イスラム教徒が一日に数回メッカの方に頭を下げて何が悪いのか、特定のあるものにちょっとしたこだわりを持つ人間がいたとしてそれに何の問題があるのか?

こういったことを理解しようともせず、自分の中の常識だけで判断しようとするから、ちょっとした違和感も「異常」と捉えてしまうのではないでしょうか。

むしろそういった事情を勘案もせず「異常だ」とレッテルを張ってしまう人の方が実は「障害者」なのではないかと最近よく思うようになりました。

うつ病などはあくまでも病気である

よくうつ病などの精神疾患の人を見て障害者と同じように扱う人を見かけますが、基本的にうつ病などの精神疾患は病気であって、他者にどうこう言われるような重度の障害ではありません。

その人たちは社会の基準に合わせすぎたが故、自分の基準が壊れてしまった社会の被害者であるといってもいいと思います。

確かにそういった人々のとる行動は一般人=平均的な人々の理解を超える行動かもしれませんが、ある程度までならばそれは単なる自由でしかありません。

別に「幽霊が見え」ようが、ある特定の音を嫌おうがそれは自由です。

問題はそれが「実力行使による排除や強制」に至った場合です。

その場合にはある程度の「保護」や「隔離」が必要だとは思いますが、別に思想や得手不得手についての話に留まる場合は特に問題はないと思うのですがどうでしょうか?

社会にとっての障害となり得ない限りは尊重すべき

これは実はいわゆる健常者といわれる人々にとっても同じようなことが言えます。

基本的に社会は「自分勝手」な行動については極端な制限を設けています。

自分のみがよければいいという行動はどのような時代や文化の中でも許容されうるものではありません。

自分がやりたいこと=やっていい、ではなく、自分のやっていいこと=責任のとれる範囲で、という考え方が重要です。

自分自身が他者とその周囲にいる人々に対し、その行動の責任を負えないのであればその行動が自分がやりたいだけという場合は慎むべきです。

もちろんこれは「自分で責任を負う」ということを前提とした話なので、ブラック企業などから抜けられないなどという話とは違います。

あれは「本来、会社が負うべき責任を従業員に丸投げしている」だけなので穴が開こうが何しようが引継ぎなどで後任者に迷惑のかからないようにすれば十分です。

おそらくこういった話を故意に混同させようとする経営者は多いので、ここはあえて言及しておきます。

まとめ

話がそれましたが、障害者はあくまでも特定の物事に対し少しばかり力が足りないだけであって、それ以外の部分では実は常人を上回ることもあります。

よく言われるサヴァン症候群などはその例ですね。

その「足りない部分」を周囲が補えばいいだけであって、現状のようにダメ人間のレッテルを貼って完全に隔離しようとするのはいかがなものでしょうか?

そうすると余計に社会からの距離は遠くなり、より自分たちの理解することのできないモンスターとなってしまう危険性もあります。

むしろ、迷惑であることを意識しているだけ、何も考えずに迷惑をかけ続けている人よりは実はマシなのかもしれないと思います。

多様性とは何なのか、そして「正常」とか、「平均」とか、「標準」とか、「世間」とか、いろいろと『基準』を表す言葉はありますが、それがいったい何なのか、結局は人によって違うのにそれを自分にとって都合よく理解しているだけなのかもしれない、と思ったので今回はこのテーマで書いてみました<(_ _)>



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