【公開日】 2017年07月24日 

勘違いすると厄介なことに・・・。客観的事実と主観的事実の違い

【この記事を読むのに必要な時間は約〈 6 分31秒 〉です。】

最近、個人の意見を発信しやすくなったことも影響しているのか、「私が言っていることは正しい」という主張をよく見かけるようになった気がしませんか?

こういった主張に対して「調査されたデータは正しい」という意見もよく主張されています。

この両極端な2つの意見が実は「主観的事実」と「客観的事実」の違いというわけです。

ではこの2つの関係ってどういったものなのかをちょっと考えてみることにします。

主観的事実とは?

主観的事実とは「自分が感じたことは事実である」というものです。

「人が嫌がることはしない」などの道徳観念の中ではよく登場しますし、人間の感情である喜怒哀楽や痛い、苦しい、キツい、ムカつく、好きなども全てこの主観的事実の中に入ります。

要は他人がどう思おうが自分はこう感じたという「内面の事実」のことを指しています。

文系分野で用いられるのはこの主観的事実です。

客観的事実とは?

客観的事実とは科学や天気のような過去の実験や観察などの確実なデータに基づく誰もが事実であると認めるしか無いもののことを指します。

「雨が降る」「生物は死ぬ」などはこの客観的事実ということになります。

この客観的事実には感情などの一切の不確定要素は存在せず、常に正しいルールに基づくものが「正しい」ということになります。

本来、理系分野で用いられるものはこちらの基準です。



なぜ最近は事実が判りづらいのか?

このように事実には2種類のものがあることはわかりますが、ではなぜ最近は『事実』がわかりにくいのでしょうか?

その理由は実は社会の基準に主観的事実と客観的事実が混在しており、使い分けを上手くできなくなっているからであると考えられます。

「何かがあった(what)」は客観的事実ですが、「なぜ起こした(why)」は主観的事実です。テレビなどで事件の報道が行われる際にもこの2つの『事実』はよく一緒に出てきますよね?

この2つの『事実』が混在する時に、受け取り手がその基準が実は違うものであることを判断できず、混乱しているというのが判りづらい理由というわけです。

 

例えば犯罪の処罰は客観的事実を基に有罪・無罪を判断し、主観的事実を基にしてその量刑について考えます。これがもし主観的事実(犯罪者だと自分が思ったら犯罪者である)で判断してしまうととんでもないことになるということがわかると思います。

※もちろん構成要件の中には故意か過失かなどのようにある程度の主観的なものを要求するものもありますが、これは外形からある程度判断できるという類のもののためだろうと思います。(罪刑法定主義のため、細分化しておかないと裁けなくなる可能性もあるので・・・。)

 

たしかに個人の感覚を大事にするという『主観的事実』は大切なものではありますが、社会の基本的な基準は『客観的事実』に基づくものです

少なくともその基準を個人の勝手=主観的事実で捻じ曲げていいものではありません。

最近はこの点を理解できなくなっている人が多いのでトラブルが多いのだと思います。某国のお偉いさんもそういう基準で判断しているんじゃないでしょうか。(誰とはいいませんが・・・。)

もちろんわざと主観的事実を客観的事実と誤認させるような悪質な方法も存在するようです

どうすればいいのか?

この解決方法は「どちらの基準を適用することが適切か」という判断する手順を「事実か嘘か」の判断手順の前に設けることで解決します

例えば小説やドラマなどで事実か嘘かを判断する記述の一つに『この物語はフィクションです』みたいな表記がありますが、勘違いされたくないのであればこのような記述を設ける必要があるということです。

このサイトでもサイドバーの右上に個人の主観に基づくものである、という注意書きをしていますが、こういった表記は本来みんなが判断できるのであれば必要のないものです。

しかし最近ではそういったものを表記していない限り、勝手に勘違いする人も多いのであえてそう書いている、というわけです。(表記していても勘違いする人は多いですが。)

もし表記されていなくても本来は情報の正誤の判断は自分で行うべきものなのですが、最近はなぜか都合のいいように取る人が多いような気がします。

客観的事実が存在しないものもある

実は政治などに代表される『思想』は客観的事実が形成できないものの代表例です。なぜならその事実の形成が人の意思=主観的事実のみで形成されるものだからです。

この主観的事実を社会でも通用するように客観化するためには「統計」や「集団化」などを通じて説得力をもたせる必要があります

よくある内閣支持率調査や政党の結成などはこのための手法ですね。もちろん代表的なものとしては『選挙』もこれに当たります。

ただし、集団化や統計化は母集団のバランスを均等にしないと結果的に「その限定された範囲内での客観的事実」となり、その範囲内にいない人にとっては事実としての価値を持ちません

だから、よくある内閣支持率の調査結果が各社まちまちで信憑性のないものとなっている、というわけですね。だって母集団のバランスをまったく考慮していませんし、サンプル数もまったく足りていませんから。

まとめ

最近は自分と同じ傾向の人が唱える「主観的事実」のみを『事実』として取り扱っている人がとにかく多いように思います。それが実は「客観的事実ではないにも関わらず」です。

こういう場合、都合のいい主観的事実の共有による多数決のみが『事実』とされてしまうということになります。

だからこそ、反発も多いですし、上手くいかなくなっている、ということなんじゃないでしょうか。

個人の意見=主観的事実は尊重すべきですが、さすがに他者の主観的事実を完全否定していいというわけではないと思うのでそのあたりを注意してみるとトラブルも減るかもしれませんね。



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